
春風が頬を撫でる四月初旬、新しい職場に向かう瞬間、佐藤美月は深呼吸をした。28歳、転職3回目。今度こそ長く働ける場所であってほしいと願いながら、少し早めに家を出た彼女は、通勤路にある小さな神社に足を止めた。
「おはようございます」
巫女装束の若い女性が境内を掃いていた。美月が会釈すると、彼女は笑顔で応えた。
「参拝ですか?」
「はい、少し…」美月は言いかけて、言葉を飲み込んだ。新しい職場への不安を和らげるために、ほんの少しの運試しがしたかった。でも、それを口にするのは少し恥ずかしい。
「何かお悩みがありますか?」巫女は掃き掃除の手を止め、美月に近づいてきた。清楚な雰囲気と柔らかな物腰が、どこか安心感を与えた。
「今日から新しい職場なんです。少し緊張していて…」
「そうですか」巫女は頷いた。「実は今日は特別なおみくじがあるんです。良かったらどうですか?」
「特別なおみくじ?」
巫女は小さな木箱を取り出した。通常のおみくじ箱より少し色鮮やかで、桜の花びらが彫られていた。
「これは『恋愛みくじ』と呼ばれているものです。月に一度だけ、満月の夜に神様が筆を取られるという言い伝えがあります。単なる運勢だけでなく、恋愛に関するメッセージも記されているんですよ」
美月は少し戸惑った。恋愛の運試しは全く考えていなかった。30歳までには結婚したいという漠然とした希望はあったものの、昨年失恋して以来、恋愛は保留状態だった。しかし、巫女の優しい笑顔に促され、美月は「お願いします」と頷いた。
木箱を軽く振り、一本の細い竹筒を引き抜く。巫女が受け取り、中から小さな紙を取り出した。
「大吉です」巫女が美月に紙を渡した。
『大吉 – 桜舞う春に新たな出会い、迷わず進めば道は開かれん。待ち望んでいないものこそ、あなたに必要な宝となろう』
その下には小さな文字で「課題」と書かれていた。
『今日一日、目の前のことに「はい」と言おう』
美月は思わず笑みを浮かべた。単純なメッセージだが、妙に心に響く。
「素敵なメッセージですね」
「大吉は滅多に出ないんですよ」巫女が嬉しそうに言った。「特に恋愛みくじでは。きっと素晴らしい一日になりますよ」
IT企業の開発部門に転職した美月は、オリエンテーションを終え、昼食時に社員食堂へと向かった。新入社員用の席に着くと、隣に同じく新入社員らしき男性が座った。
「佐藤さんですよね?同期の山田健太です。午後からは同じプロジェクトみたいですね」
「あ、はい。佐藤美月です。よろしくお願いします」
山田は爽やかな笑顔の持ち主で、話しやすい雰囲気があった。美月より少し年下に見える。彼はランチトレイを置くと、隣に空いた席を指さした。
「森さん、こっちですよ」
美月が視線を上げると、40代半ばくらいの男性がトレイを持って近づいてきた。白髪交じりの黒髪と、穏やかな表情が印象的だった。
「森敏明です。二人のプロジェクトリーダーを担当します」席に着いた彼は二人に軽く会釈した。「佐藤さんは前職でもウェブ開発をされていたんですよね?」
「はい。ただ、使用言語が少し違うので…」
「大丈夫です。基本は同じですから。わからないことがあれば、いつでも聞いてください」
森の優しい言葉に、美月は少し緊張が解けた。昼食後、三人は開発室へ移動し、プロジェクトの説明を受けた。顧客向けの新しいウェブサイト開発で、美月はフロントエンド部分を担当することになった。
「これ、かなりタイトなスケジュールなんですよね?」山田が心配そうに訊ねた。
「そうなんだ」森は少し困ったように頭をかいた。「実は今週金曜日にクライアントとの中間報告があって、デモ版を見せる約束をしてしまったんだ。みんなでがんばれば間に合うと思うんだけど…佐藤さん、無理かな?」
美月は一瞬躊躇した。初日からこんな重い仕事を任されるなんて。でも、朝引いたおみくじの言葉が頭をよぎる。『今日一日、目の前のことに「はい」と言おう』
「はい、やってみます」思い切って答えると、森の表情が明るくなった。
「ありがとう!本当に助かるよ」
その日は予想以上に忙しく、気がつけば夜9時を回っていた。山田はすでに帰宅し、開発室には森と美月だけが残っていた。
「お疲れさま。初日からこんなに残業させてごめんね」森が申し訳なさそうに言った。
「いえ、大丈夫です。むしろ仕事の全体像がつかめて良かったです」美月は疲れた表情の中にも笑顔を浮かべた。
「帰りの電車、大丈夫?」
「はい、あと30分くらいは…」
「なら、駅まで送るよ。私も帰るし」
普段なら遠慮するところだが、今日はおみくじの「はい」作戦を続けることにした。「はい、ありがとうございます」
森の車は清潔で、控えめなグリーンティーの香りがした。窓から見える夜の街並みに、美月は少し感傷的な気分になった。
「緊張していたでしょう?」森が静かに言った。「でも、すごく頑張ってたよ。センスがいいね」
「ありがとうございます」思わず頬が熱くなるのを感じた。「森さんはプロジェクトリーダーをずっとされているんですか?」
「いや、最近昇進したばかりなんだ。実は私も転職組でね、この会社に来て3年目だよ」
「そうなんですね」美月は少し驚いた。森の落ち着いた雰囲気からは、もっと長くこの会社にいるような印象を受けていた。
「転職って勇気がいるよね。でも、変化を恐れない人は強いよ」森の言葉には、どこか自分自身の経験が滲んでいるようだった。
駅に着くと、森はわざわざ車を停めて美月を降ろしてくれた。
「明日も頑張ろう」彼が言った。「あ、そうだ。もし良かったら、この後少し何か飲みに行かない?初日の緊張をほぐすっていうか…」
美月は一瞬躊躇した。上司との二人きりの飲み会。普段なら丁寧に断るところだ。でも、森からは変な圧力は感じられない。純粋に気遣いからの誘いのようだった。そして今日の「はい」作戦。
「はい、ぜひ」
駅近くの静かな居酒屋で、二人はビールを一杯ずつ注文した。話題は仕事のことから、少しずつ個人的なことへと移っていった。森は10年前に離婚し、今は一人暮らし。趣味は山登りと読書だという。
「佐藤さんは恋人とかいるの?」突然の質問に、美月は少し驚いた。
「いえ、今はいません」正直に答えると、森は少し安心したような表情を見せた。
「そうか…失礼な質問だったね」
「いえ、大丈夫です」美月は笑顔で言った。「でも、なぜ聞くんですか?」
森は少し照れたように視線を逸らした。「いや、なんとなく…」
その夜、家に帰った美月は、朝引いたおみくじを再び取り出した。『桜舞う春に新たな出会い』という言葉が、今日一日の出来事と重なって見えた。
翌日から、美月は森と二人で夜遅くまで働くことが多くなった。クライアントへのデモまでの時間は限られており、山田も含めた三人でプロジェクトに没頭した。森は仕事の指導だけでなく、美月が会社に慣れるようにさりげなくサポートしてくれた。
木曜日の夜、ついにデモ版が完成した。「やった!」三人で小さなハイタッチを交わし、達成感に包まれた。山田は先に帰り、残った二人はデスクを片付けていた。
「本当にありがとう、佐藤さん」森が心からの感謝を込めて言った。「君がいなかったら間に合わなかったよ」
「いえ、私こそ勉強になりました」美月は正直に答えた。「森さんの指導のおかげです」
「いや、君の才能だよ」森の瞳が真剣な光を宿していた。「実は…明日のクライアントミーティングにも来てほしいんだ。君が直接説明した方が説得力があると思うんだ」
「え、私がですか?」美月は驚いた。通常、新入社員がクライアントの前でプレゼンなどしないはずだ。
「無理かな?」
今日はもう「はい」作戦の日ではないが、この4日間で美月は少しずつ自信をつけていた。
「はい、やってみます」
森は満面の笑顔を見せた。「ありがとう!」そして少し考え込むように言葉を続けた。「…明日、ミーティングが終わったら、どこかお祝いに行かない?二人で」
その言葉の意味を理解するのに、美月は少し時間がかかった。「二人で」という言葉には、単なる同僚以上の意味が込められているようだった。
「デートということですか?」思い切って聞いてみた。
森は少し赤くなった。「そう…もし良ければ」
美月は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。転職初日の上司との出会いが、こんな展開になるとは。朝のおみくじの言葉が再び頭に浮かんだ。『待ち望んでいないものこそ、あなたに必要な宝となろう』
「はい、喜んで」
金曜日のクライアントミーティングは大成功だった。美月のプレゼンテーションは明快で、クライアントからも高い評価を得た。
夕方、二人は予約しておいたレストランに向かった。少し高級な和食店で、窓からは桜並木が見える。満開の桜が夕日に照らされ、幻想的な景色を作り出していた。
「乾杯」グラスを合わせると、森が真剣な表情で美月を見つめた。
「急すぎるかもしれないけど…この4日間で、私は佐藤さんに惹かれてしまったんだ」
美月は静かに微笑んだ。「私も同じです」
「本当に?」森は少し驚いたように目を見開いた。「年齢差とか、職場の関係とか、気にならない?」
「もちろん考えることはたくさんあります」美月は正直に答えた。「でも、一歩ずつ進んでみたいと思います」
森の表情が柔らかくなった。「ありがとう」
食事を終え、二人は桜並木を歩いた。風が吹くと、桜の花びらが舞い降りる。美月はふと立ち止まって、ポケットからおみくじを取り出した。
「実は月曜日の朝、これを引いたんです」
森はおみくじを読み、驚いた表情を見せた。「これは…」
「不思議ですよね」美月は微笑んだ。「私は恋愛なんて考えてもいなかったのに」
森は静かに手を伸ばし、美月の手を取った。「俺も同じだよ。最近までは仕事一筋で…でも、君に会ったとき、何かが変わった気がした」
美月は温かい手の感触に安心感を覚えた。
「その神社、今度一緒に行ってみない?」森が提案した。「僕も恋愛みくじを引いてみたい」
「はい」美月は笑顔で答えた。「きっといい結果が出ますよ」
桜の花びらが二人の周りを舞う中、美月は自分の人生に訪れた予想外の幸せを噛みしめていた。転職、新しい出会い、そして恋。おみくじの言葉通り、待ち望んでいなかったものが、彼女にとってかけがえのない宝物になろうとしていた。
春風が彼らの髪を優しく撫でる中、二人は桜並木をゆっくりと歩き続けた。これから始まる新しい季節に、心を躍らせながら。