【恋愛小説】古書店の隅に眠る恋の予言

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雨音が静かに窓を叩く日曜日の午後、私は古書店「時の葉」の扉を開けた。梅雨の合間の小雨は、街に独特の潤いをもたらし、古書の香りと混ざり合って心地よい空間を作り出していた。

「いらっしゃい」

奥から聞こえる声は、店主の坂本さんのものだ。六十代半ばの彼は、この店を三十年以上営んでいる。白髪交じりの髪を後ろで束ね、いつも同じ色褪せた茶色のカーディガンを着ている。

「こんにちは、坂本さん。今日もお邪魔します」

私、倉田美咲は、この古書店の常連だ。二十八歳、出版社で校正の仕事をしている。活字の世界に囲まれて生きているが、デジタル作業がほとんどの現代において、紙の本に触れる機会は仕事でもそう多くない。だからこそ、休日にはこうして古書店を訪れ、時間を忘れて本の森をさまよう。

「どうぞ、ゆっくりしていってね。今日は新しい古書がいくつか入ったよ。奥の棚を見てみるといいかもしれない」

坂本さんはそう言って、読みかけの本に戻っていった。

私は彼の言葉に従い、奥へと進む。狭い店内だが、天井まで届く本棚が迷路のように配置されていて、思いがけない出会いがあるのが楽しい。

外の雨音が遠くなり、時間がゆっくりと流れていく感覚。本の背表紙を指でなぞりながら、私は深呼吸をした。ここにいると、いつも心が落ち着く。

ふと、目に留まったのは、「恋愛心理学の歴史」というタイトルの古い本だった。最近、仕事で恋愛小説の校正を担当することになり、参考になるかもしれないと思い、手に取る。

表紙をめくると、中から一枚の紙が滑り落ちた。

それは、古びた和紙でできた小さなおみくじだった。

「なんだろう、これ」

私は不思議に思いながらも、そのおみくじを広げた。薄い和紙には、墨で書かれた文字が浮かび上がっている。

『中吉 – あなたの隣には既に運命の人がいます。気づかぬふりをしているだけかもしれません。勇気を出して視線を変えてみましょう。』

私は思わず笑みを浮かべた。「恋みくじ」とでも言うべきものだろうか。誰かの忘れ物か、それとも店主の遊び心だろうか。

「何か面白いものを見つけたのかい?」

突然背後から声がして、私は小さく悲鳴を上げた。振り向くと、見知らぬ男性が立っていた。

「あ、すみません。驚かせるつもりはなかったんです」

男性は申し訳なさそうに笑った。三十代前半といったところか、黒縁の眼鏡をかけ、少し乱れた黒髪が知的な印象を与える。手には数冊の本を抱えていた。

「いえ、こちらこそ。ちょっと集中してしまって…」

私は慌てておみくじを本に戻し、棚に返そうとした。

「あの、もしかして『恋愛心理学の歴史』ですか?それ、実は僕が探していたんです」

男性の言葉に、私は手の中の本を見直した。

「そうなんです。でも、もう読まれましたか?」

「いえ、研究のために探していたんです。心理学の博士課程で研究をしていて」

「そうだったんですね。どうぞ」

私は本を彼に差し出した。その時、おみくじが再び滑り落ちる。

彼はそれを拾い上げ、目を通した。そして不思議そうな表情を浮かべた。

「これは…おみくじですか?」

「さっき本の中から出てきたんです。誰かの忘れ物かと」

「面白いですね」彼は微笑んだ。「僕も実は似たようなものを持っています」

そう言って、彼はポケットから同じような和紙のおみくじを取り出した。

「どういうこと…」

彼のおみくじには、こう書かれていた。

『小吉 – 雨の日の古書店で、あなたの研究にヒントをくれる人と出会うでしょう。その出会いは、あなたの人生の新しいページとなるかもしれません。』

私たちは顔を見合わせ、思わず笑い出した。

「信じられないですね。私は倉田美咲と言います」

「佐伯健太郎です。もしよければ、このおみくじの不思議について、お茶でも飲みながら話しませんか?」

普段なら見知らぬ男性からのお誘いには警戒するところだが、彼の誠実そうな目と、この不思議な偶然が私の好奇心をくすぐった。

「はい、ぜひ」

私たちは本を購入し(彼は別の本を選び、私は元々探していた本を買うことにした)、店を出た。雨はすっかり上がり、湿った空気の中に太陽の光が差し込み始めていた。

古書店の前にある小さなカフェに入り、窓際の席に座った。本について、仕事について、そして私たちが出会ったおみくじの謎について話した。

「坂本さんに聞いてみましょうか?」と私が提案すると、彼は首を振った。

「いや、もう少しこの謎を楽しみましょう。こういう不思議な偶然って、人生にスパイスを加えてくれますから」

彼の言葉に、私は心地よい温かさを感じた。

会話は弾み、気がつけば夕暮れ時。彼の研究の話は興味深く、私の仕事の話にも熱心に耳を傾けてくれた。

「実は、僕の研究テーマは『現代社会における偶然の出会いと運命』なんです。SNSやマッチングアプリが発達した時代に、古典的な偶然の出会いがどういう意味を持つのか…」

「それって、まさに今日の私たちみたいな?」

「そうですね」彼は照れたように笑った。「良い研究材料になりそうです」

別れ際、彼は勇気を出して言った。

「また会えませんか?研究のことでアドバイスをもらえたら嬉しいです。それに…」

「それに?」

「いや、単純に、あなたともっと話したいと思って」

その正直な言葉に、私の心は小さく震えた。

「はい、ぜひ」

私たちは連絡先を交換し、それぞれの道を歩き始めた。数歩歩いたところで、私は立ち止まり、振り返った。彼も同じタイミングで振り返り、私たちはまた笑顔を交わした。

家に帰り、バッグから取り出した「恋愛心理学の歴史」を開くと、最初のページに小さなメッセージが書かれていることに気づいた。

『この本を手に取ったあなたへ。人生は偶然と必然が織りなす物語です。この本が、あなたの新しいページの始まりとなりますように。- 時の葉』

私はおみくじを取り出し、もう一度読み返した。

『中吉 – あなたの隣には既に運命の人がいます。気づかぬふりをしているだけかもしれません。勇気を出して視線を変えてみましょう。』

雨上がりの空気のように清々しい気持ちで、私は窓辺に立ち、夕暮れの街を見下ろした。

携帯が震え、メッセージの通知。佐伯からだった。

『今日はありがとう。不思議なおみくじのおかげで、素敵な出会いがありました。また近いうちに、今度は偶然ではなく、必然として会えることを楽しみにしています。』

私は微笑みながら返信を打った。

『こちらこそありがとう。次は私が面白い本を見つけておくね。偶然と必然の境界線について、もっとお話ししましょう。』

送信ボタンを押した後、私はふと思った。

この出会いは本当に偶然だったのだろうか?それとも、誰かの仕組んだ必然だったのだろうか?

そして、もう一つの可能性—私たち自身が無意識のうちに求めていた、運命の糸が引き寄せた奇跡なのかもしれない。

答えはわからない。でも、それを探す旅は、きっと素敵なものになるだろう。

私は本棚に「恋愛心理学の歴史」を大切に置き、おみくじを栞として挟んだ。この物語の続きを紡ぐのは、これからの私たち自身だ。

雨上がりの夕暮れ空が、新しい始まりを優しく照らしていた。


次の朝、出版社に向かう途中、私は「時の葉」に立ち寄った。

「坂本さん、昨日はありがとうございました」

店主は穏やかな笑顔で迎えてくれた。

「良かった。気に入ってもらえたようで」

「あの、おみくじのことなんですが…」

「おみくじ?」坂本さんは首を傾げた。

「本に挟まっていた恋みくじです」

「ああ、それね」彼は意味深な笑みを浮かべた。「この店には時々、不思議なことが起こるんだよ。特に、何かを求めている人には」

「坂本さんが置いたんですか?」

「私が置いたのかい?それとも別の誰かが?あるいは本そのものが選んだのかもしれないね」彼は静かに笑った。「大切なのは結果だよ。良い出会いがあったんだろう?」

私は頬が熱くなるのを感じながら、小さくうなずいた。

「それなら、おみくじはその役目を果たしたということさ」

帰り際、坂本さんは言った。

「また来なさい。この店にはまだまだ、あなたのために眠っている物語があるからね」

外に出ると、朝の光が街を明るく照らしていた。私はスマホを取り出し、佐伯にメッセージを送った。

『今週末、一緒に古書店巡りしませんか?』

返信はすぐに来た。

『ぜひ。今度は僕が素敵な本を見つけます。そして、次のページを一緒に開きましょう。』

私は微笑みながら歩き出した。時々、人生は本のように、予想もしない展開を見せてくれる。そして、その物語を豊かに彩るのは、出会いという名の奇跡なのだ。

古書店の隅に眠る恋の予言

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